【M-1審査員の心理学②】上沼恵美子がもたらした「感情のフレーミング」と、心理的安全性の崩壊

5年の休止期間を経て、2015年に劇的な復活を遂げた『M-1グランプリ』。 この「新世紀M-1」において、大会の空気感を決定づけ、時に嵐を巻き起こした最大のキーパーソンが、関西お笑い界の女帝・上沼恵美子氏でした。

島田紳助氏が去り、松本人志氏が「一人の審査員」として復帰したこの時代、審査員席の心理構造は「カリスマへの絶対的同調」から、まったく異なるフェーズへと突入します。

シリーズ第2回は、上沼氏が審査員席に君臨した2016年から2021年までの激動期をクローズアップ。彼女の存在が審査員や芸人たちの脳内に与えた影響を、「感情心理学」や「組織行動論」の視点から大真面目に解剖します。

【感情心理学】「好き嫌い」という最強の評価軸と感情のフレーミング効果

上沼氏の審査スタイルを象徴するのが、「私はこのネタ、好きやわぁ」「今回はちょっと好みやないね」という、一見すると直感的・主観的な言葉たちです。しかし、これを単なる「おばちゃんのワガママな採点」と片付けるのは、あまりにも浅薄です。

心理学において、物事の表現方法(枠組み)を変えることで他者の意思決定に影響を与える現象を「フレーミング効果(Framing Effect)」と言います。

【評価軸のフレーミング】
旧M-1(紳助時代):
「技術」「構成」「新しさ」という【理性のフレーム】で採点
 ↓
新世紀M-1(上沼参入):
「客席に届くエネルギー」「好悪(パッション)」という【感情のフレーム】の提示

上沼氏が「好き・嫌い」という強烈な感情のフレームを審査員席に持ち込んだ瞬間、他の審査員たちの脳内スコアボードには大きな揺らぎが生じました。

なぜなら、人間はどれだけ理性的(ロジカル)に審査しようとしても、隣で「圧倒的な熱量を持った主観」を叩きつけられると、自分の出そうとしている「客観的な点数」が、単なる「冷徹でつまらない数字」に見えてくるという「認知的葛藤」を起こすからです。彼女のパッションは、他の審査員が守ろうとしていた「理性の防壁」を強引にこじ開け、大会全体に「理屈を超えた爆発力」を評価する新たな物差しを定着させました。

【組織行動論】「心理的安全性の崩壊」が引き起こす、極限のパフォーマンス

ビジネスや組織心理学において、近年最も重要視される「心理的安全性(Psychological Safety)」。これは「誰もが非難される恐怖を感じず、安心して発言・行動できる状態」を指します。 しかし、新世紀のM-1舞台裏、特に2017年のマヂカルラブリーに対する「よう決勝残ったな」に代表される上沼氏の烈火のごとき酷評は、この「心理的安全性を一瞬で粉砕する劇薬」として機能しました。

【芸人たちの脳内シミュレーション】 「ウケるかスベるか」だけではない。もし彼女の『感情の逆鱗』に触れたら、全国放送の生放送でキャリアを否定されるレベルの公開処刑が待っている――。

この「恐怖」は、心理学的には二面性を持っています。 過度な恐怖は脳を萎縮させますが、M-1決勝に勝ち上がるほどのモンスター芸人たちにとって、この「心理的安全性の完全なる崩壊」は、逆に「限界突破の覚醒」を促すトリガーとなりました。

ぬるま湯の安心感を奪われ、「刺し違えてでも笑いをもぎ取るしかない」という生存本能(闘争・逃走反応)が刺激された結果、2018年のトム・ブラウン、2019年のミルクボーイ、そして2020年にリベンジを果たしたマヂカルラブリーといった、「これまでの常識を破壊するイノベーション(狂気の漫才)」が次々と誕生することになったのです。上沼恵美子という劇薬が、M-1を「綺麗にまとまったお笑いコンテスト」から「命がけのコロシアム」へと変貌させたと言えます。

【認知心理学】「上沼の怒り」の直後に得をする、コントラスト効果の妙

心理学には、直前に見た極端な刺激によって、その次に来る刺激の評価が歪められる「コントラスト効果(Contrast Effect)」(対比効果)という現象があります。上沼氏の審査は、このコントラスト効果を大会全体に発生させる巨大なトリガーでした。

想像してみてください。あるコンビが上沼氏から厳しい言葉を投げかけられ、会場の空気がピキッと凍りついた(=心理的なボトムに落ちた)とします。

その直後に登場するコンビは、「ただ普通に明るく、テンポの良い漫才をするだけ」で、脳科学的に実力以上の『救世主効果』を獲得することができます。凍りついた緊迫感から脳を解放してくれた(安堵感をもたらした)コンビに対して、観客も、そして他の審査員も、無意識のうちに「加点バイアス」を働かせてしまうのです。

上沼氏が1人で感情の乱高下(ジェットコースター)を作り出すことで、M-1という4時間の生放送の中に「心理的な陰影(ドラマ)」が生まれ、特定のコンビの爆発力が何倍にも増幅されるという現象が、この時代には何度も観測されました。

結び:男たちの数理モデルを破壊した「人間・上沼恵美子」という芸術

島田紳助氏が作った「ロジカルでストイックな数理モデル」としてのM-1。 しかし、新世紀M-1において上沼恵美子氏が証明したのは、「お笑いという芸術は、数式だけでは測れない。なぜなら、それを評価するのも、演じるのも、不完全で熱い『人間』だからだ」というあまりにも人間臭い真理でした。

彼女が審査員席を去った2022年以降、M-1はさらに細分化され、データ分析的な「多極化時代」へと向かうことになります。そこには、山田邦子氏の参入による「アンカーの完全なる破壊」という、新たな心理戦が待っていました。

次回、最終回第3回【現代・多極化時代:山田邦子の爆弾と、分散する評価システム】へ続く。

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